「常識」が通じないなら「超常識」で立ち向かえ 〜震災20年後の神戸に学ぶプロジェクトデザイン(前編)
ハードを整備し、横串しでまちのソフトづくりに挑む
河合節二さんは、神戸市長田区のJR鷹取駅南側地域一帯を拠点とする野田北ふるさとネット(以下、ふるさとネット)の事務局長。ふるさとネットは、同地域のために活動する個々の組織をゆるやかにつなぐ、地域のハブとしての機能を持った団体だ。
野田北ふるさとネット事務局長 河合節二さん
震災に直面したのは、33歳のときのこと。当地の出身者である河合さんは、1993年に発足したばかりの野田北部まちづくり協議会に参加し、地元で開かれた市の再整備事業の完成式典(94年12月18日)に出席した。そのちょうど1カ月後、野田北部地区は阪神淡路大震災に見舞われた。
震災当時の野田北部地区の様子(提供:野田北ふるさとネット)
野田北地区の被災状況は、家屋3割が全焼、7割が全半壊、死者の数は41名。協議会が災害対策本部を立ち上げ、現地の救援活動をはじめる。それと併行して神戸市では震災復興土地区画整理事業をスタート。野田北地区でも特に壊滅的な被害にあった「鷹取東第一地区」が指定を受け、海運町2〜3丁目が区画整理の対象になる。しかし、ほかにも大きな被害を被った区画整理指定外のエリアがあり、協議会は住民や専門家と協議を重ね、自主的な復興のプランニングに着手。神戸市にまちの再建案を持ちかけた。
現在の野田北部地区街路の様子。民家が並ぶ路地は幅が広がり、見た目もすっきり。緊急車両の通行にも対応した
震災前の野田北部地区の様子(提供:野田北ふるさとネット)
河合さんらの復興計画は「街並み誘導型地区計画」に基づくもの。これにより歩きやすい街並みが形成され「将来的に5mの路地の確保も可能」だという。合理的なまちなみ形成は「従前のまちと同じ轍を踏むまい」という住民に共通する思いで、同時に進められた「街なみ環境整備事業」では路地の美装化も推進した。
時間経過とともに野田北地区は日常的風景を回復させつつあったが、地域課題は残っていた。
「将来的にどんなまちにしていくのか、市の職員や住民たちと話し合うなかで『ふるさとと呼べるまちに戻す』という意見があった。そのためにはハード整備だけではダメ。みんなをつなぐ場・機能が必要だった」
そこで協議会では「ハードからソフトへ」を合い言葉にコミュニティーづくりに注力。2002年にふるさとネットを発足させ、縦割りだった自治会などの団体・組織を横串しにし、定期的に情報交換できる場を設けることで、単独の組織・団体ではできない活動をふるさとネットでできるようにした。
鷹取駅下部連絡通路(旧国鉄施設の面影が残る通りの様子)
まちの美化に努める「野田北美しいまち宣言」もその1つ。最近はNPOとのコラボレーションで駅前の駐輪場を整備した。現在の野田北地区はかなり整えられた状態に見えるが、河合さんは「復興のゴールはまだまだ」と話している。
コミュニティーをつなぐ、メタなコミュニティーをつくる
「1.17」の当時、神戸大学の2年生だった舟橋健雄さん。
「神戸ITフェスティバル」オーガナイザーの舟橋健雄さん
「震災を契機に世界中から濃い人が神戸に集まり、いろいろな人と出会った1年間は貴重な時間だった」。そこでの刺激が、後の舟橋さんを突き動かす原体験となる。
「実現したかったのは“多様性”。神戸ってハイカラなイメージですが、コミュニティー同士の関係がバラバラで、場合によってはドロドロしていることすらある(笑)。それは1.17以降顕著になりました。それぞれすてきな活動なのに、バラバラなんてもったいない。本来コミュニティーという言葉の語源には、「互いに与え合う」っていう意味があります。どうにかコミュニティーを“つなぐ”ことができないかと、僕らは“IT”と“アイデアを媒介として、『コミュニティーを包摂するコミュニティー』、すなわち“メタなコミュニティー”をつくろうとしています。そうすれば、たんにいろいろな文化がバラバラに存在する“多文化状況”から、“多様性”といえる状態に昇華できると考えています」
ふだんは株式会社神戸デジタル・ラボに勤める舟橋さんだが、会社にも応援されながらの地域活動として、2つの地域コミュニティーを運営している。1つは「ギークな人たちだけを集めるのでなく、ITを専門としていない人にも楽しんで参加していただける」という「神戸ITフェスティバル」。2011年から毎年開催し、これまで計4回開催している。
「神戸ITフェスティバル」は、大人だけでなく子どもも参加することができる(提供:神戸ITフェスティバル)
もう1つの「TEDxKobe」は、「Ideas worth spreading(より良いアイデアを広めよう)」を理念とする世界的スピーカーイベント「TED」からライセンスを受けてスタートした活動。2013年に認定された「TEDxSannomiya」を前身としており、今年5月24日には「Dive into Diversity」をテーマに掲げる「TEDxKobe2015」を控えている。
震災から引きずっていた「逃げ出したような負い目」
2012年から、神戸での“多様性”づくりに共感した同志もできた。2つのコミュニティー運営で舟橋さんと行動を共にする、鈴木敏郎さんだ。
(左から)「神戸ITフェスティバル」オーガナイザーの鈴木敏郎さんと舟橋健雄さん
鈴木さんは「1.17」を京都で知った。隣接する明石市内の実家が被災し、幸い家族に怪我はなかったものの「実家から帰ってこなくていいといわれた。何1つ手伝うことがなく、被災者にも支援者にもなれなかったことで、震災から逃げ出したような負い目を引きずっていた」。
震災体験を違える2人だから「神戸の話になるとしょっちゅういがみ合いになる(笑)」というが、舟橋さんは「お互いわからないことを前提にしたつながりはある。むしろ僕らは、足りない者同士で補い合っていける関係」。
2015年1月17日の「TEDxKobeSalon vol.2〜Facing Barriers」は、鈴木さんも携えていたそんな「他者との隔たり」を考えるイベントとなった。
TEDxKobe salonの集合写真(提供:TEDxKobe)
「自分と同じような体験をしている人も多く、相手の違いを認識したうえで、隔たりを埋めることに価値を感じた人も多かったと思う」。2人は子を持つ親という共通項を挙げ「子どもが大人になったときに、神戸が楽しい場所じゃないと僕らも困る。神戸を大きな家族のような場にして、すてきな未来を見せたい」と口を揃えた。
共通項は、自燃型かつ共創型であること
その土地への思い、そして、震災体験が火種となり、人に着火させてもらうことなく自ら燃え上がる“自燃型”の「神戸改革」に取り組んだ永田さん。また、年齢、被災状況、活動をはじめた時期、そして活動の手法も異なる今回の面々も自燃型であるのは同様だ。
「少し乱暴な言い方になるけれど、復興はやったもん勝ち。だまっていたら損をする。上意下達でキーマンの登場を待つようではうまくいかず、行政、専門家、ボランティア、住民が手を取り合えば、将来的によいまちになるはずです」(河合さん)
「多元的にコミュニティーをつないでいけば、本当の意味での“多様性”を神戸に実現できる。進行方向さえ間違えなければ、“IT”と“アイデア”という2つの媒介を両輪にして、神戸はもっとすてきなまちになっていくと、実は楽観している部分もあります」(舟橋さん)
自燃型ともう1つ全員に共通するのは、他者の知見を組み合わせて、自らは“媒介者”になっていること。みなの思いが結合し、ブレイクスルーを迎えたとき、「神戸」は本当の意味での復興を迎えるのかもしれない。
4年前に「3.11」を体験した日本には、被災地からの物理的な距離も、当時の年齢・立場も、関わり方も異なるが、何かしらの「震災体験」を携えた人がたくさんいる。その体験の裏には「何かしたかったけど何をすればいいのかわからなかった」というある種の悔恨がつきまとっているはずだ。
しかし、神戸にはいまだ潜在的な地域課題が折り重なり、解決のプレイヤーは今なおその課題解決方法を探求し続けている。震災復興は、20年経っても現在進行形であり、私たちが思っているよりも、ずっと“ゆるやか”なものなのかもしれない。
ならば、今この時間に暮らしている私たちもみな、プレイヤーになり得るとも言える。そして、何かを解決したいという火種をもっておくことが、震災を風化させない最も有効的な手段になるはずである。